この文章は、日本歴史学協会が2023年6月24日に開催した第 28 回史料保存利用問題シンポジウム「コロナ感染症をめぐる記録と記憶 ―何を、誰が、どう残すか」での発表のために準備したものです。ポスターに掲載されたタイトルは、「コロナ感染症をめぐる記録と記憶-現状と課題」でしたが、若干修正しました。これも一つの記録であるという意味を込めて、感染症アーカイブズのHPで公表します。
第 28 回史料保存利用問題シンポジウム
「コロナ感染症をめぐる記録と記憶 ―何を、誰が、どう残すか」
(2023年6月24日)
新型コロナのパンデミックをめぐる資料、記録、記憶
―「何を、誰が、どう残すか?」
飯島 渉(青山学院大学文学部、感染症アーカイブズ)
はじめに―「感染症の歴史学」
さまざまな感染症の流行と制圧の歴史を、東アジアを中心として検討することが私の主な仕事です。ペスト史からスタートし、マラリア、その後、日本住血吸虫症やフィラリア症などの風土病へと関心を移しました。風土病は、地域の生態系、人々の生業や活動などが背景であるため、歴史学の課題として意義ある対象です。資料の整理と保存も含め、そんな仕事を続けてきた2020年の初頭から新型コロナのパンデミックに直面しました。中国から感染が始まったため、発言を求められる機会も増え、かなりの数の文章を公表してきました。
そうした中で、歴史学を専門とする者として最も気になったのは、新型コロナのパンデミックをめぐる資料、記録、記憶は後世に引き継がれるだろうか、という問題です。むしろ、ほとんどが廃棄されるのではないかと感じたのです。忘却それ自体を否定すべきではありません。人間は過去を忘れないと生きていけないかもしれません。しかし、すべてを廃棄や忘却に任せるわけにはいきません。次の新興感染症の被害を少なくするための知見を失うことになるからです。
これを、新型コロナの資料、記録、記憶の「何を、誰が、どう残すか」問題と呼ぶことにしました。資料という言葉を使ったのは、博物館などが保存すべきさまざまなモノも保全と継承の対象だからです。記録としたのは、紙媒体だけではなくインターネット上のデータなども含めデジタル化された記録の保全を強く意識しているからです。記憶の保全は容易ではありませんが、インタビューなどを通じてそれを残すことを計画しています。
この報告では、まず、「何を、誰が、どう残すか?」問題の構図を検討し、次に諸外国の状況も含め「現状と課題」を説明します。その上で、「新型コロナ・アーカイブ」(仮称)の構築を提言し、そのあり方に関する提案を行います。
新型コロナのパンデミック
2020年以来の新型コロナのパンデミックも、三年半の時間の中でようやく収束の局面を迎えつつあるようです。収束とは、新型コロナウイルス感染症がなくなるのではなく、管理可能な感染症とみなすことでした。さまざまな努力が行われ、その中で膨大な資料、記録、記憶が蓄積されてきました。
本当にいろいろなことがありました。中国での初発的な感染拡大とロックダウン、ダイヤモンドプリンセス号事件、日本も緊急事態宣言を行い、ワクチン接種と「自粛」を中心に対策を進めました。東京五輪パラリンピックは一年延期となり、2021年の夏、緊急事態宣言の中で開催されました。
新型コロナのパンデミックは地球上で生活している私たちすべてが当事者で、資料、記録、記憶は膨大です。感染症の歴史学を専門とする者として、毎日がフィールドワークのような感覚に陥りました。風土病をめぐるこれまでの仕事で、私が進めてきたのは「起承転結」のはっきりしている感染症の歴史化でした。しかし、新型コロナは現在進行形の感染症であり、意見を表明し、知見を提供することの難しさ(怖さ)も実感しました。
私の仕事は「感染症を歴史化する」ことです。何らかの理由で残された資料があってはじめて成り立つものでした。考えてみれば、10年後、100年後の歴史学(その段階まで歴史学が学問として継承されることを期待しますが、これは本日の話題ではありません)が、新型コロナのパンデミックを歴史化しようとしたとき、分析の対象は2020年以来、蓄積され、同時に、廃棄されつつある膨大な資料、記録、記憶です。後世の歴史家のためにぜひそれを残す必要があると考えました。新型コロナの歴史化は、将来的に起こることが懸念される新たな新興感染症への備えのための知見ともなります。
新型コロナをめぐる資料、記録、記憶
「何を」残すべきでしょうか。感染症(対策)自体の資料を想定しがちですが、新型コロナのパンデミックからどのような影響を受け、行動をとったのか、それは何故かという、いわば個人の視点に立って「社会を記録する」ことが必要だと考えるようになりました。
対象となる資料、記録、記憶は膨大で、すべてを残すことは出来ません。「何を、誰が、どう残すか?」について議論を深め、理論構築を行い、戦略的に残す努力が必要です。そうした試みを意図的に行わなければ、多くの資料、記録、記憶が廃棄され、失われてしまうことになります。
議論の必要上、公的な、つまり、政府や地方公共団体、国際機関などの資料、記録と私的な資料、記録に分けて考えることにします。実際には区別が難しいものも少なくありません。新興感染症として公衆衛生対策が重視され、政府の役割が肥大化し、膨大な公的な資料、文書記録やデジタル化された記録が蓄積されてきました。また、より膨大な量の私的な資料、記録が蓄積されています。21世紀のパンデミックとして、インターネットやSNS上に膨大なデータがあることは、感染症の歴史学をめぐる新たな課題といえます。
それらは、現在、急速に失われつつあります。新型コロナも「忘れられる」ことでしょう。この表現は、20世紀初頭のインフルエンザのパンデミックの歴史を描いた米国の歴史家、A・クロスビーの「A Forgotten」という本のタイトルをまねたものです。「スペイン風邪」と呼ばれたこのパンデミックは、人口が15億人ほどの時期に数千万人の命を奪いました。しかし、クロスビーはそれが忘れられてしまったと指摘しています。
「何を」残すか?
2020年以来、学校の一斉休校、リモートワークの推進、ワクチン接種の拡大などさまざまな対策が進められました。経済活動の維持支援金事業やGo To Travelなども重要です。こうした対策の立案、施行の中で膨大な資料、記録が蓄積されました。これは公文書の領域です。また、政府や地方自治体もツイッターなどを運用しており、デジタル化された記録も重要です。同時に、より多くの私的な資料や記録が蓄積されました。日記のような形態もあれば、写真や動画、SNSの記録も含まれます。
現在、残すための作業の一環として、ある学校にお願いして、3年間のパンデミックをめぐる資料、記録を提供していただき、その整理を進めています。同時に、生徒、保護者、先生にインタビューを行い、記憶を保全することも計画しています。しかし、私たちの作業には限界があります。ぜひ、関係の学会、大学、地域、個人の参画をお願いします。
「誰が」残すか
この問題が本日の課題の中心の一つと言えるでしょう。公的と私的と分けたのは、「誰が」残すべきか(責任)と深くかかわるからです。今回のパンデミックは、2020年の流行の開始時期において歴史的緊急事態と認定され(閣議決定)、関係の記録を公文書館に移管するとしました。事態が進行中で、公文書の保存年限の問題などもあって、何が今回の保存対象となるのかは依然として流動的です。公文書が適切に整理・保存され、公文書館で後世に継承されるよう強く要請します。資料の保全が必要であるという世論や日本学術会議などの提言も必要です。
残すべきは文書だけではありません。多くのモノもたいへん大切な資料です。象徴的だったのはマスクでした。こうしたモノを保存し、後世に継承することは、博物館などの役割です。ちなみに、日本は医療系の博物館がたいへん貧弱です。健康は多くの人々の最大の関心のひとつで、健康をテーマとする博物館があって、新型コロナを含め感染症をめぐる展示があれば、たいへん有意義です。収束の局面を迎えた現在、博物館がこの間の経緯をモノとともに振り返る企画展示を行うことはたいへん意味があります。
「どう残すか」
最近になって、重要な裁判記録が廃棄されていたことが明らかになり、大きな批判を浴びました。記録を保管する場所が不足していることがその理由の一つとされました。場所がないので廃棄するというのは論理の逆転と言わざるを得ません。しかし、この問題をそのままにして、資料や記録を残すべきだとしても現実性を欠くことも事実です。デジタル化によって資料や記録を保存することが大切です。文書館などの公的な機関と同時に、関係の学会や大学などがこれに参画することが必要です。個人も役割を果たすことが可能だということも指摘しておきます。
資料、記録、記憶を残すためのさまざまな取り組みがあります。例えば、A journal of Plague Yearは、インタビュー記録の集約の試みです。2020年に関西大学が、「コロナアーカイブ@関西大学」というクラウド型のデータベースを構築しました。これは、たいへん野心的な試みでしたが、現在は閉鎖されています。デジタルアーカイブ学会はこうしたデジタルデータベースのプラットフォームを提供していますが、残念ながら、その内容はほとんど更新されていません。
クラウド型のデジタル・データベースの構築
新型コロナをめぐる資料、記録、記憶の保全と継承のモデルの一つは東日本大震災の記録や記憶を残すために構築された「ひなぎく」というクラウド型のデータベースです。現在、国会図書館に付設され、多くの方々の投稿によって膨大なデータがデジタル化され蓄積されています。
大災害ではあったものの、東日本大震災の場合、対象地域をある程度限定することも可能です。しかし、新型コロナコロナ・アーカイブ(仮称)の対象はより膨大で、その構築は容易ではありません。本年度から、科学研究費によるプロジェクトを立ち上げ、その試行版の構築を開始しました。プロジェクト構成員および限定したメンバーの中で資料提供とその活用を試験的に行い、データベース構築のための問題点を明らかにすることを課題としています。直ちに公開することを想定していませんが、仕組みと方法論は提供可能なので、多くの大学、学会、個人がこうしたデータベースを構築し、身近な資料、記録や記憶を保全・継承することを提案します。
日本学術会議の提言
本年夏ごろを目標として、日本学術会議から新型コロナのパンデミックをめぐる資料、記録、記憶を残すための提言を出すことを準備しています。今回のシンポジウムを共催している日本学術会議史学委員会での議論をへて、現在、関連委員会や専門家の意見を求め文案を調整中で、その内容は、
1)公文書や膨大な私的資料、記録の保全と継承のための制度構築が必要である
2)博物館機能を充実させる必要がある
3)コロナ・データベース(仮)の構築とその運用
となる予定です。既存の感染症関係研究機関を活用することも一案と考えています。
提言を出すタイミングとして、本年5月の新型コロナ対策の本格的な緩和、WHOのパンデミック宣言の解除とあわせて公表することが理想的でした。動きが遅いという反省もありますが、日本学術会議がさまざまな学会を包括する組織としての性格を持つことを考えると、「何を、誰が、どう残すか」をめぐって、理論と制度の構築のための提言を行う責任があります。
おわりに
新型コロナのパンデミックは三年半という時間の中でようやく収束の局面を迎えつつあります。実は、ここからが歴史学の出番だと言えるでしょう。しかし、歴史学が依拠すべき資料、記録、記憶が急速に失われつつあることも事実です。その意味で、「何を、誰が、どう残すか」に関する戦略を明確にし、資料、記憶、記録の保全と継承を適切に行うことが必要です。この間、論点を整理しながら痛感しているのは、「資料はつくるもの」だということです。
先日、ほぼ3年ぶりに海外出張で台湾に出かけました。国立成功大学という台湾南部の台南市にある大学が、授業の一環として新型コロナの資料や記録、記憶を残すためのセミナーを国立台湾歴史博物館と共同で開催しました。教えてくださる方があって私も参加しました。セミナーでは、学部学生や大学院生にパンデミックを象徴するモノを持ってこさせ、その意味を説明する、同時にパンデミックをもっともよく示す言葉の提案を求めました。印象的だったのは、その結果をオンラインミュージアムとしてインターネット上に公開するというその手法です。
この試みは、資料を残すための営為を通じて、歴史に「介入」することでもあります。たいへん挑戦的な試みであることは間違いありません。そうした試みを日本でも行う必要があると痛感しました。これは、新型コロナのパンデミックをめぐる資料、記録、記憶を残すという営為に多くの人が参画できる試みだからです。地球上に生活する全ての人が当事者だったことを考えれば、こうした試みこそが21世紀的なあり方だということができるでしょう。
この報告が、新型コロナのパンデミックをめぐる資料、記録、記憶を後世に継承するために役立つことを願っています。ご清聴ありがとうございました。